三浦半島の小さな旅、終着駅の久里浜へ、そして横須賀
切符の話についてはこちらへ
5月28日、久々に東京湾がやや晴れていて、梅雨入り前の貴重な涼しい一日。
東京も緊急事態宣言が解除されて、そろそろ少し出かけようと思ったら、ちょうど友達がこれを機に三浦半島のところに行きたいと話していて、私もこの話の流れに乗っかって、厚かましいながら連れてとお願いし、数ヶ月ぶりに自宅から歩き出した。
いざ、出発!
「何か月ぶりだろう、東京駅は」と思いながら、ふっと東京駅に着いた。
目的地は明白だ、線路の果て、久里浜駅へ。
乗客がそもそも少なかったにもかかわらず、三密を避けるため、そしてハイデッカーの二階席を乗るため、自腹で2人分のグリーン代を払い、いつか廃車するかわからないE217のグリーン車に乗りました。ホーム上はスイカにしか対応しておらず、切符は残していなかった。
乗車時間は一時間半。くねくねの品鶴線を乗るのは初めてではないが、横浜から先の部分は初めてだ。戸塚駅の奇妙な構造と駅前を見て魅了されていながら、友達の話の内容に夢中になって写真が撮り忘れた。分かる人は分かるだろう、あの変則な駅前ビル群とか。
逗子過ぎた一気に市街地が見えなくなった。横須賀線の歴史を見たら市街地を通るはずがそもそもない。日清海戦を備えるための路線だからね。
海軍の鎮守府が置かれた軍港都市・横須賀、陸軍の東京湾要塞の沿岸砲台一つである観音崎砲台、敵軍の上陸想定地点[注 3]の一つである長井への輸送を目的として、陸海両軍の要請により建設された路線であり[3]、その発端である海軍大臣西郷従道と陸軍大臣大山巌の連名で総理大臣伊藤博文宛に横須賀線の建設を請議した1886年6月22日付の文書においては …… ——Wikipediaより
トンネル、そして田浦、またトンネル。11両の鋼の大蛇が揺れて、終着の久里浜に着きました。JRの久里浜駅はしょぽくて、駅前は駐車場とハトしかなかった。私鉄の通っている場所のJRの駅は大体こういう風景だなあと思いながら、海沿いのある公園へ足を運んだ。
ここで少し意外な会話:
友:「ここらへん大丈夫なの、ホームに警察いっぱいいたし」
僕:「警察だったら一人もいないし……」
友:「制服の……」
僕:「あれ多分JRの従業員……」
目的地はペリー上陸記念碑だった。
歴史が嫌いではないがあまり詳しくはなかった。ペリー来航の話ぐらいについては知らないでもない。だが恥ずかしながら、最初の上陸地はずっと下田だと思っていた。黒船も字面通りに黒いものだと思っていた。
記念碑としては結構大きいものだった。百年もするものにもかかわらず、字が鮮明に残されている。これを機に日本が開国したか、と思いながら公園の中でウロウロしていた。幕府とか明治とか、ここから始まった、か。
あいにく記念館は6月末まで休館で、行けなかった。公園の中で観光客はほぼ皆無で、僕ら2人が異常に目立った。
公園の中に人の姿がほとんど見られず、一見静かだったと思われがちだが、実際ベンチで世間話している年寄りもいったし、桟橋が隣でフェリーの音もしたし、通りかかったヘリコプターの爆音もしていた。黒くてやや四角いヘリだった。
フェリーと言えばやはり青函…と、思いが何故か北海道に行ってしまった。
時間は13時になった。少し腹も減ったから、市街地に行って飯食いに行こうかと思った。開国橋を後にして、静かな川沿いが目に入った。人のいない町に人のいない舟、そして人のいなさそうな自衛隊駐屯地…
やや京急久里浜駅に近づくと、活気な街が待っていた。商店街もあった。ここで寿司でも食べようか。駅メモの駅ノートに載っているメモラーたちが薦めたグルメ情報うを駆使して、寿司屋さんを一軒見つかりました。
適当に注文して、少しビールも飲んだ。だがやはり酒に弱いから店を出ていった途端にふらふらしていた。寿司は美味しかったが、茶碗蒸しが一番印象が残った。
酔いながら横須賀へ。多分1501分発の逗子行きだろうか忘れてしまった。ペリーの話を聞きお寿司食べながらなんと午後3時かとため息しながら電車が発車しました。
海軍さんの街、横須賀に到着した。案の定JR横須賀駅前は何もなく、海と軍艦が見える公園しかなかった。
まるで海を見せるため駅だった。天気も良し、風もよし。
右手は米軍基地だ。大きな音でなんらかを放送している。英語が不得意で、何も聞き取らなかった。人に聞いてみたら多分軍事演習をしていたみたいだった。
丸くて黒い潜水艦がそこに一つしかないと思ったら、実際ふたつもあったと驚いた。そういう変な見た目していたのはただの見間違いか(笑)。
JR横須賀駅を後にして、市街地へ進んだ。横須賀中央駅を目指して、快特を乗り帰ろうぜ。
適当に写真を貼って終わらせよう。
まだゆらゆらして一時間半、自宅に戻った。
これは、5月のある日の旅でした。